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米沢観光コンベンション協会



米沢市概要と歴史
米沢市ってどんなところ?
 米沢市は山形県最南部に位置し、市街地は海抜240〜260m、東に奥羽山脈、南は吾妻連峰、西に飯豊連峰と二千メートル級の山々に囲まれた盆地です。面積は548.74K屬塙く、南北に28.2辧東西は32.1劼發△蠅泙后5じは盆地の典型で、夏暑く冬寒いが、反面四季の移り変わりがはっきりしており、四季折々の情緒を肌で感じることができます。

明治22年、日本で市制が施行された最初の市の一つであり、人口は85,000人、内大学生が4,000人(国立山形大学工学部,県立米沢女子短期大学)と多く、文教の街学生の街の一面、我が国第一号のインダストリアルパーク「八幡原中核工業団地」を擁し、伝統産業の米沢織物と合わせ県内一の工業出荷額がある、産業都市でもあります。また上杉氏の治政272年の城下町として、数々の史跡と伝統が息づく歴史の街でもあります。

 

米沢市の歴史
 
  1.“米沢”地名の由来
 米沢事跡考によれば「在昔、井を穿つの時、水湧きて白きこと、実に浸米の如し、時人米井と称す。僉曰く 真に国端なり 来り見る者 堵の如し。米澤の名 是れに出づしという。大町・大善院米井の銘をひいて語源とす」とある。
 また、鶴城地名選、兜山夜話には、「飯豊山の麓に位し、米穀豊穰なる故、この名あり」といい、さらに、伊達家古文書等には「当初米澤と書いて爐茲覆気鎰瓩噺討咫慶長以後爐茲吻瓩廊爐茲有瓩謀床修掘現今の如く爐茲佑気廊瓩噺討」とある。
 結局は、松川の沿岸地域で、早くから開田された米の収穫のある土地とあって、里の人々は花沢に対し米沢といいならわしてきたと思われよう。
 
  2.上古時代
 上古時代については、文献の徴すべきものもなく、先住民族アイヌの事跡もまた明らかでない。続日本記には「元明天皇の和銅五年(712)出羽国を置き、附近一帯に蟠居せる蝦夷を征服した」とある。
 米沢地方は元来、陸奥の国に属していたが、陸奥から置賜、最上の二郡をさいて出羽国へ付加したのである。この出羽国府の位置については田川郡、由利郡の二説があって明らかでないが、いずれにしてもこの地方に国府があったとされる。
 当時の米沢は「ヲイタミ」(置賜)に属していて、出羽国府の支配下にあった。これが米沢が政治の支配下についた始めであろう。
その後、淳和天皇の天長七年、山や川が三昼夜にわたって雷動、李山の湖水こわれ、人家損したるものの、之がため田園が大いに開けたと長泉寺縁起にある。
 下って醍醐天皇の延長五年にできた延喜式には、置賜地方を七分し、置賜・廣瀬・屋代・赤井・宮城・長井・餘戸の郷名をあげ、その後二四年目に出た和名類聚には、出羽を以天波(イテハ)、置賜を於伊太三(オイタミ)と訓じてある。康暦二年、伊達宗遠の書にも置民郡長井庄とある。
 
  3.長井時代
  文治五年(1189)、源頼朝は藤原泰衡を討ち、これを殺した。泰衡の武将良元は逃れて、中津川御成山にこもる。大江廣元の次子時廣は之を征服し、その戦功によって長井庄の地頭になった。大江氏は以後長井姓を名乗った。
 即ち、米澤城を築き(暦仁元年)、時廣から四代目の宗秀は成島八幡宮や白子神社を修造し、宗秀の孫廣秀の時は、南北朝対立の時代であり、廣秀は足利氏に重用されて、その政所の執事にまでなった。貞和四年(1348)、時春は長井庄地頭を継ぎ、最後に廣房の世となった。
 康暦ニ年(1380)伊達郡の領主伊達宗遠が長井庄を侵略したため、足利氏満は諸将をして廣房を助けだが間に合わず、廣房はその領を失い、長井氏は滅亡した。
 この長井氏が米沢を治めたのは前後190年間であった。
 
  4.伊達時代
  伊達氏八代宗遠は康暦二年(1380)、長井を占領し、高畠城を本拠として置賜を鎮撫した。伊達氏は以後十七代政宗まで十代、210年にわたって置賜地方を領した。
 九代政宗(儀山)から十三代尚宗までは高畠城本拠を置いていたが、十四代稙宗、十五代晴宗の代は梁川・西山・米沢の諸城に転々したが、晴宗は天文十七年(1548)、米沢城を本拠とした。
 独眼流政宗貞山は永禄十年(1567)米沢城に生まれた。幼名は梵天丸。幼少の時に疱瘡を患い、その病毒のために右の眼を失ってしまった。十五歳に初陣、華々しい活躍で飾り、十八歳の時には父輝宗が畠山氏に謀殺されるや直ちにその仇を討ったのを初めとし、周囲を攻めて東は田村、宮城より西は越後津川、北は白石、南は白川をすぎてニ毛にも及ぶ広大な領地を占め、その勇名を轟かせた。
 豊臣秀吉はその威力を恐れて岩出山移封とし、政宗は天正十九年(1591)、岩出山に移った。政宗は海に近い仙台に本拠を移し、遠くローマに使節を送る等、封建の世に既に国際的な文化政策を進める程の視野の広さを持った文武に優れた英雄だったといえよう。
 
  5.蒲生時代
  蒲生氏郷は天正十九年(1591)、秀吉の命により奥羽鎮護となり、米沢城三万八千石を蒲生郷安に配し支配させた。
 氏郷の死により秀行が跡を継ぐが、慶長三年(1598)、秀吉から宇都宮移封を命ぜられた。
 蒲生氏が米沢地方を支配したのはこの間わずか八年間だけであった。
 一方、上杉景勝は秀吉の命を受けて越後領国を転じ奥羽会津若松百二十万石の所領となる。米沢地方は執政直江兼続の知行地となり、兼続の手によって今日の米沢の町づくりの基礎がなされることになったのである。
 
  6.上杉時代
◆会津百二十万石から米沢三十万石へ
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに、上杉景勝公は西軍に味方したため、没後、除封減封大名の対象となり、慶長六年(1601)、景勝は会津百二十万石から上杉氏の執政直江兼続の知行地だった米沢三十万石に減削移封された。その領域は以前の領地百二十万石のうち置賜地方十八万石と福島県の伊達・信夫十二万石だった。
 直江兼続は減封移城の命を受け、直ちに米沢移封を行ったが、旧来の家臣については全く減員をしなかった。謙信時代の越後数百万石から会津百二十万石、そして米沢の三十万石へと削減され、藩域も大幅に減少したのに六千の士を抱えており、当然、家臣の知行や扶持も削減しなければならなかった。
 慶長六年十一月、景勝公は米沢に入城すると、二の丸を手はじめに、門・塀・櫓・外濠などの普請改善を行い、元和九年(1623)には本丸に式台・広間・台所を改築し、しだいに城塁としたの面目を整えた。
 次に家臣団の配置についてみてみると、中心部は当然、侍屋敷で、城の東の主水町には大身の侍組(家臣では最高の家格)、南の馬口労町には馬廻組(謙信公時代に選ばれた100騎)、西の五十騎町には五十騎組(景勝公の直参)、北には与板組(兼続の直参)というように、上級・中級家臣は三の丸内に配置され、小身のものは城下の郭外に置かれたが、その割合は城郭内892軒に対して郭外は1,877軒になっていたとされている。
 下級の武士が郭外に配置されている理由は、一つには城下町が狭く、全部の家臣を収容できなかったこと、もう一つは下級家臣に荒れている地を開拓させて生活の保障と同時に防備の役割を持たせたことである。南原・舘山・玉庭等はこうした半士半農の生活の地であったが、後世、城下の下級武士は在郷の下級武士を「原方のクソつかみ」と軽侮し、在郷の士は城下の貧窮な下級武士を「城下のおかゆ腹」とののしり、互いの喧嘩言葉になったという。
 町人町も城下と共に発展していったが、主として東側にその位置を占めた。商人及び職人町は外郭濠で侍屋敷と厳重に区別されて町割りがされていた。侍組のある大手門の東には大町・柳町・東町・南町・立町・粡町の六町が町人町の中核をなし、更に各職人町が六町周辺部に町割りされた。
 家臣団の統制として「家中掟」が発布されたが、その内容は大きく分けて次の八項目となる。
  一 軍役に精励すること
  二 悪事雑説の禁止
  三 相続、婚姻の統制
  四 他国外出旅行の統制
  五 私闘の禁止及び家中和合
  六 徒党及び他藩家との交際の禁止
  七 上下の服従関係
  八 風俗の統制


◆綱勝公の急逝で十五万石に
 慶長六年の減知移封後約六十年、この間に藩の体制も整い、安定を見ようとする時、寛文四年(1664)藩主綱勝公の急逝により、突如として半知の十五万石に削られた。この年綱勝公は江戸桜田邸でにわかに腹痛をおこし、一週間後に亡くなった。この時二七歳。婦人は会津藩保科正之の娘だが子もなく病死していたので、上杉家は家督を継ぐ者が決まっておらず、改易処分の窮地に立たされた。
 ところが保科正之が幕府むきの折衝あっせんに奔走し、危機を救ってくれた。吉良義央の子三郎(母は綱勝公の妹)を養子という名目で上杉家に入れ、家名相続ほ保持することができたのである。
 この半知削封に際しても家臣の召し放ちは行わず、可能な限りの減知によった。ほとんどが半知削減となったが、このような領地高に相応しない過大な家臣団の保持が緊密な主従関係を維持し、保守的な藩風をつくると共に、他方では財政のひっ迫と家臣の生計困難、半農半士的生活の推進、家中の手内職等をもたらしたといえる。
 こうした点に加え、凶作や飢饉も多かったことから藩財政は窮乏の一途をたどった。そのしわ寄せは家臣団に及び、ついには知行の「借上げ」という段階にまでいってしまった。元禄十四年(1701)には借上げが禄高の四分の一だったが、この後継続的に見られるようになった。
 明和元年(1764)藩主重定公は、十五万石の封土をあげて幕府に返納し、それによって収拾のつかなくなった事態を打開しようと決心した。しかし幕府の藩政再建の指示もあって翻意したという。 ここまでたち至った藩を再興するには、抜本的な対策を講じなければならない。
 この間、宝暦十三年(1763)に、森平右衛門の処刑事件がおきている。


◆上杉鷹山公の革命
 藩財政の救いようもない窮乏期に九代藩主となったのが治憲公(鷹山公)である。宝暦元年(1751)、日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれ、十歳の時、上杉重定公の養子となり十七歳で藩を継いだ。
 藩主になった明和四年(1767)九月、白子神社に大検の断行を誓った誓文を奉納している。そして倹約令を出し、自ら一汁一菜を実行し、奥女中50余名を9人に減らした。
 鷹山公の改革政治となったのは竹俣当綱と莅戸善政であるが、改革派勢力の増大を不服とする七重臣連署し、新政策を批判した。これが犲群帆動瓩糧端であるが、鷹山公は慎重な吟味の結果、須田満主・芋川延親ら七家は切腹・閉門・知行召し上げなどの裁決を下した。
 この後、改革政治は順調な成果をあげることになる。
 まず農村の復興のための施策をみると、一つ目は備荒制度がある。 
 安永三年(1774)、五棟の「備籾倉」を建て、三万俵の籾を貯えた。しかし天明三年(1783)の大飢饉で出し尽くしたので、鷹山公は更に備荒貯蓄20年計画を定め、毎年籾五千俵、麦二千五百俵を貯えることにした。このため天保四年(1833)の大飢饉の時も、米沢藩では一人の餓死者も出なかったという。
 二つ目は、農民の商業禁止と帰農策である。商業の発展もあって農家から町家へ奉公が増えたためこれを禁じ、生家の農家へ戻ることを命じている。
 三つ目は、開墾の奨励と他領からの開発農民の招へいである。寛政七年(1795)に開墾者に便宜をはかることを約し、またどこの国の者でも農民として歓迎することにした。
 この他、間引きの禁止と子女教育の奨励・勧農と倹約励行などをはかり、生産人口の増加、貢租体系化を進めた。
 これと併行して殖産興業政策も進められた。まず初めに漆・桑・楮の増稙で、安永四年(1775)、樹芸役場を設置、おのおの100万本・計300万本増稙した。
 また、寛政四年(1792)に蚕桑役局を設けて、桑の栽培と養蚕奨励を始めた。桑苗購入資金や桑畑開発料を貸付け、鷹山公自らも苗木を買上げて農民に無償交付したり、自ら飼育したほどである。
 安永五年(1776)には越後国から縮師を雇い入れ、縮役場を設けて家中に指導させた。間もなく絹織物に転じたが生産も急増、後年の米沢織物の素地をつくった。
 鷹山公の施策を貫いていたのは民衆を大切にすることであった。彼は明和四年(1767)に藩主となった時、「受け次いで国のつかさの身となれば忘れまじきは民の父母」と歌ったというが、殖産興業政策も藩の一方的強制ではなく農民が自己を商品生産者として確立しようという欲求と協力する方向で進められている。
 鷹山公は三五歳で隠居、その後も治広公の後見役として藩政を指導し、文政五年(1822)七二歳でその生涯を終えた。隠居した天明五年(1785)治広公に与えた三ヶ条は「伝国之辞」として広く知られている。
  一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、国家人民の為に立てる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
 
  7.戌辰の役から明治維新
  十三代斉憲公が家督を継いだのは天保十年(1839)である。時は幕末に近く、内外の情勢が急激に変化しつつあった。文久ニ年(1862)、将軍より上洛の命が下った。この年は寺田屋騒動があり騒乱期である。翌文久三年(1863)には京都警護の役を命ぜられている。
 しかしこの間、天領・上杉の領地あるいはお預け地等何回も変遷を重ねている屋代郷は様々な問題を抱えていたが、文久三年(1863)屋代郷は米沢藩領と同様な扱いとなった。これを知った屋代郷民は大慌てとなり騒動をおこしたが、三ヵ年にわたってようやく終息を見た。
 国にあっては尊王倒幕運動が盛んとなり、幕府の権威は衰える一方となった。慶応三年(1867)徳川十五代将軍慶喜はついに大政奉還を決意、260年間続いた江戸幕府が倒れた。
 しかし武力征服を目指す薩長両藩は、江戸城総攻撃を目指すが、西郷隆盛と勝海舟の話し合いによって、江戸の戦火は避けられた。さらに官軍は東北の鎮撫を手がけたが、薩長の政府軍に強い不満を持つ奥羽列藩は同盟を結び対抗した。
 米沢藩は仙台藩と共に奥羽列藩同盟の中心となり、主に越後方面において官軍と善戦したが総督色部長門の戦死等苦戦を強いられ、慶応四年(1868)九月、ついに降伏した。次いで仙台藩も降伏し、東北の最後の砦会津若松城も悲痛な最後を迎えた。
 この若松城の降伏に前後して東北諸藩もぞくぞく官軍に降伏し、新政府の命に従い、慶応四年は明治元年として、戌辰戦争は終りを見て、新しい近代日本への歩みを始めた。
 
  8.明治時代以降の動き
  明治ニ年(1869)、十四代上杉茂憲公は版籍を奉還し、米沢藩庁を置いた。明治四年には米沢藩を米沢県と改め、十一月には之を廃して置賜県とし、今の東南西置賜郡三郡及び米沢市を管理した。
 さらに九月には置賜県を山形県に合併、明治十年(1877)には大区小区に分け、明治十一年(1878)には大小区を廃して、置賜地方を東南西の三郡に分けた。
 明治二二年(1889)には市町村制の実施と共に、米沢市は南置賜郡から独立し、米沢市の成立となる。昭和二八年(1953)から三十年(1955)にかけて町村合併促進法によって米沢市もその範囲を広げ、現在の規模に至っている。
 なお、米沢市は市制施行の初年度において市制化しており、平成元年(1989)には市制100周年の記念すべき年を迎え、様々な記念行事やイベントが行われた。